昭和57年6月5日 朝の御理解
御理解第七十九節
商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。
今日は、この、七十九節と、いう、ここんところだけを頂いたんです。だいたい御理解頂く(?)七十九節ということろだけをこう頂いたんです。七十九節に、一つ加えると、八十節ということになる。ね、八十とは広がりにプラス、広がりに広がるというふうにも頂いていいでしょう。どうしても、おかげが受けられない、時にはね、もう本当に、大英断とこう申しますかね、えー、そすと、今日も据えて、もう本気で、教えに取り組むことです。
例えばこれは私も、根っからのだいたいは商売人ですから、えー、この御理解は、えー、もうそれこそ、まっ商売に対してくださるみ教えはこれしかない、というふうに、思うてもおるし、知ってもおりましたけれども、この、言うなら、実行ができませんでしたね。私はできませんでした。ただ商売上手とか、といったようなことでまあ、商売をたっておりましたけれども、結局本当のおかげにはなりませんでした。まっ本当のおかげにならなかったことが、なあ今日のまた、合楽があるわけでもありますけれどもね。んー、なかなかもってでけんです、ねえ。
とにかく、売り場買い場を大切にせよと、人が十銭で売るものは、ね、八銭で売れと、目先は二銭損のようで、もう、目先は二銭損なんだからね、二銭安く売れば。なかなかできるこっちゃないです。ね、けれども、ここんところをね、私は、教祖様が御教えくださるのだから、と、一心発起して、それを行ずると、二銭を損しても、まあ、何て言うでしょうかね、昔から申します、「損して得とれ」と言ったような、これはもう理外の理です。ね、そろばんの外にでる利益というのが、私は頂けれると思うです。
これは、まあ商売のことでは、私の場合は、あー、教祖の御教えを行じきらんなりに、まっ、あー、商売をやめねばならないことになったんですけれども、ね、私が本当に、この御教えを、商売の上に現しておったら、ね、商売の上で、やはりおかげを受けてるだろうと思います。ね、どうしても、いわゆる目先は二銭損のようで(?)、目先のことだけを考えるわけですね、私どもは。おかげでもそうです、目先目先のおかげを言わずに、まずね、言うなら、力を頂かなければならない。その力を頂くためには、やはり、えー、本気で、今まででけなかったところを、を、おー、行じさしてもらうという生き方がいる。
もう一つ、一押しすれば、七十九から八十になるんだという。ね、だからここには、結局人間心はいらないことになります。人間心が、を、使うたら、とてもそんなに安うは売られん。人間心を使、使うたら、腹を立てずにはおられない。けれども、なら、それを心行でいこうとすると、でけないことがでける。もうそれはもう、不思議なまでにすっきりとできる、ね。
昨日は、神愛会でしたから、今それぞれ先生方、もう本当に取次ぎの現場での、おーまあ、生き生きとしたお話でございますが、えー、今度は、あー、いわゆる、ご本部で執り行われております、何回にも何回にも分けて、全国の教師を集めて、昨日聞きましたんですけども、四千万円からかける。もう皆、その、おー、教師を、の旅費を出してやるわけですね。そして、その三日間あちらで、みっちりその信心を、取次ぎ者としての、まあ信心(?)の教育をする、されるわけなんです。百年祭を目指してということなんですが、どういうこと、おー、まあそれぞれ、皆神愛会行っておられますから、聞きましたら、んー、えー、えーあそこは、んー、あーその陸奥の、あー教会ですね。石?石何じゃったかあそこの教会(石動教会)石動教会か、あー、もう本当に何日も、それこそあのおー、何日もかけてから毎月この神愛会だけには出られます。
先だってから、その会合に出られまして、その、おー、お話をしてくれということだったから、あー、演台の前に立たれた。そして開口一番、「私は、合楽教会でおかげを頂いておるのです。合楽教会によって助けられましたのです」ということを言われたら、偉い先生が「もう合楽の話なら降りてくれ」と(言われたげな?)。もうど、いかにその合楽ということが評判が悪いか、まあいかにも、まあ極端に言うと、ご本部へ弓を引くような教会というふうに言われておりますからでしょうね。合楽で助かっておる、合楽におかげを頂いておると言うただけで、お話をしてくれるなというて、言われたというのです。
ね、それかと言うて、まだ後、座談会の時に、なら先生がおかげを受けとる話をしたら、もう何人もの先生方が、もう大変そのし、言うなら合楽の話に、まあ感心して、もう本当に今度は、今度三日間の間にこういう、そのこれが一番、あなたから聞いたお話が第一の、お土産になったというて喜ばれた先生方もあったということですから、やっぱ本当なことから本当のものを求めておられる方達もやっぱ、あるわけですね。
津屋崎の松村先生なんかは、なかなか、それこそ、まあ、先生が話されたと。それはどこまでも、合楽とは言われんけれども、合楽理念を基にして、えーまあ、芯にしてお話をさせて頂いたと。合楽で言われる成り行きを尊ぶ大切にするという、というようなことを芯にしてお話になったら、えらい、これは合楽と言わなかったから、そのその信心が素晴らしいというので、後々からまでもまたそれを問うたり、手紙がきたりしたという、まっおかげ話をなさっておられました。
私はそういうその、まあ、先だってからもそうでしたけれど、合楽のその、例えば、あの、悪口を、まっ聞く時にですね、人がとやこう、言うて、ね、( ? )をする、悪口を言う、ね、それもね、「決して腹を立てるな、それも神のひれいじゃ」と神様がおっしゃっておる。神のひれいじゃということ。
私はそげなんふうに聞くたんびにね、これは、なっ今日の御理解じゃないけれども、そのへんのところを、が、言うならば抜けておる。教祖の御教えを本当に信じておる。悪口も神のひれいである。合楽がこれからいよいよ、ごひれいを頂いていかなければならない、その合楽のごひれいが、教団の中にも浸透してかなければならないほどしの、願いを私がもっておる。その、悪口を聞かせて頂く時にです、ね、いよいよもって合楽のごひれいであるというふうに、信じることができる。
ね、これは教祖の御教えを信じて、それを疑わないところから、(?)頂けれる。もしだから商売人の方がです、ね、教祖の御教えを信じてです、十銭の物は八銭で売るという、売れとこうおっしゃっておるのだから。ね、なっ教祖の御教えを信じて、それを、実行する、断行するならばです、ねえ、いよいよ、言うなら七十九から八十のおかげになるとと私は思います。結局、信じて疑わないところからです、言うなら教えの実験ができます。なるほど教祖様は、ね、御教えが嘘ではない、ということを実験実証していくことができます。
それとこれとは、違うようですけども、同じだと思います。これは私は長年、なら信心の程度の低い時、お商売をさせて頂いて、お商売で一儲けしようと思っておった時、ね、それでも、一儲けしたら、お役にも立ちたい、どんどんお供えもさせて頂きたいというようなことは思っとりますけどね、そんなことで神様が喜んでくださったり、ね、言うならば、あー、それを、おー、おかげ下さる神様じゃない。ね、教えを本当に行じて、おかげを頂く。
ところがなかなかでけません。なるほど、私も初めの間は、ね、悪口言やあ腹も立った、それこそ(?)の出る思いをするようなこともあったけれども、おかげを頂いてだんだん、そこを通らせて頂いておるうちにです、教祖は嘘はおっしゃってない、例えそれが悪口であっても、それは神のひれいとおっしゃるのだから、それを私は信じた。ねえ、だからいよいよ、合楽教会のごひれいが、まっ輝くばっかりだろうというふうに、まっ思いますし、またそのことに対して、その悪口に対してです、心が動かないどころか、もうむしろ、有り難いというものが、心に頂、響いてくるんです。ねえ、これは、教祖の御教えを信ずるところから、できる、まあ、いうならば心の状態です。まあ、今日の御理解で言うと、次元が、次元が、違ってくるのです。商売をさせて頂いてもです、ね、普通の商売人とは一次元違った、お商売ができるようになったら、素晴らしいですね。どうぞ。
入力者:大坪ふく代